暦に寄せて。

昨年の冬のことです。
受験勉強に追われていた私にとっての大晦日は、いつも通り塾に行って、冬季講習を受けて、夜10に帰宅し、夕飯を食べて、お風呂に入ってからは授業の復習。そのまま就寝。のはずでしたが、何か大晦日らしいことしなきゃな、と思い、家族と紅白歌合戦の最後の方とゆく年来る年を見て年を越しました。

その時ふと気がつきました。わたしが大晦日に何もしなければ大晦日って普通の日と変わらない単なる一日なんだなぁ、と。一旦それに気づくと何か漠然とした大きな何か、太刀打ちできないなぁ、っていう何かに対する恐怖を感じます。考えてみれば私が何の意識もしなければ一日一日は何の変化もない単なる一日です。ひょっとすると一日を一日と意識しなければ(そんなことありえないけど)世界ってただ回って行くだけですよね。

本当は実際そうなんだけど、人間がそれに今日と昨日っていうベクトルをつけて、それを表すために数字があって、暦というものがある。それが文化というもので、文明になって、今に至ると。何の変化もない自然に法則を見出して人間のものにする、っていうことはヨーロッパとか日本とか関係なく本能的なもの(わたしが感じた漠然と大きなものに対する恐怖とか)に基づいたものなのかも。暦考えた人天才。と、いうより人間て天才。



「君たち、花の名前なんて知らないでしょう。綺麗なフジが咲いていても目もくれない。植物に興味を持って見ましょうよ。その名前を知るだけでなんていうかなぁ、豊かになる。人間にとっての意味って差異なんですよ。植物の名前を知れば、あの花とこの花は違うってことがわかる。それとね、暦を知ることも差異をつけることなんです。昨日と今日は違うってわかると時間は一回性のものだって、一回きりしかないんだって気づくことができる。そうすれば一日を大事にできるでしょう。
  この差異ってものはね、名前なんですよ。人間が世界を細かく細分化する。そのコードが名前なんだよね。逆に言えば世界は色んな名前で細分化されているんだってことを、より広く、深く知ること、これが大学での学びなんですよ。」

日本文学研究の授業で教授からこの言葉を聞いた時、あ、これだ、と思いました。
そして(そうか、大学で学ぶ知識ってその分だけ豊かに生きるってことに繋がるのかもな)としみじみ感心してしまいました。

知識に限らず色んなものごとや人の、名前を知ること、覚えることが、差異を知ることにつながるのなら、少し自分のために学んでいきたいな、と思います。

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